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2020年7月1日(水)~8月31日(月)の期間に公募を行った結果、○○件のご応募がありました。一般投票と審査結果によって選出された動画には表彰等ございますので、個社ページよりご投票をお願いいたします。
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静岡商工会議所 Sing 今月のコラム
戦国武将のリアル
Sing2023年3月号

「婚家のために生きた、徳川家康の養女、満天姫」
東京大学史料編纂所
教授
本郷 和人 氏
徳川家康の姪で養女、満天姫は、徳川家康の異父弟・下総関宿藩主松平康元の娘。家康の養女となり、慶長4(1599)年、11歳で福島正則の養嗣子福島正之に嫁いだ。正之は正則のおいで、男子のなかった正則の後継者だったが、その後に実子忠勝が生まれ、地位が不安定になった。やがて正之は乱行を理由に幽閉されて病死。満天姫は10歳ほど年下の忠勝の妻にされそうになったが、幕府が彼女と子ども(正之との子)を江戸に取り戻した。
慶長18(1613)年、家康は満天姫を弘前藩主の津軽信枚に再嫁させた。ところが信枚にはすでに正室がいた。石田三成の娘である辰姫であった。信枚は辰姫を側室に直して津軽家の飛び地・上野の大館で生活させ、満天姫を正室に迎えた。しかし、彼は辰姫を忘れられず、参勤交代の際に必ず大館村に立ち寄っていた。その結果、辰姫は元和5(1619)年に男児を出産。満天姫も元和6(1620)年に男児を産んだ。
正室と側室、二人の男児。信枚はなんと、辰姫の産んだ男の子を後継者にしたいと満天姫に懇願し、姫もこれを承諾した。辰姫は元和9(1623)年に没し、彼女の子はやがて次の藩主、津軽信義となる。満天姫、心中ではさぞや悔しかっただろう。
ところがさらに、彼女の心をざわつかせる事件が発生した。満天姫は前夫・福島正之との間に男子を一人もうけていた。この子は姫が津軽家に嫁ぐ際、同家の家老・大道寺直英の養子となり、直秀を名乗っていた。寛永8(1631)年、夫の信枚が没したころ、先の婚家である福島家は、すっかり没落していた。そのため、直秀は幕府に働きかけ、自身は福島正則の孫であると称し、大名・福島家を再興するよう運動していた。
満天姫は、この直秀の活動は津軽家の災いにしかならないと何度も忠告したが、直秀は聞き入れなかった。ついには自ら江戸へ上って、幕府要人に働きかけると言い出した。寛永13(1636)年、江戸に出発する前に母の居所へあいさつに訪れた直秀は、満天姫に勧められて酒を飲むうちに、苦しみ出して急死した。毒殺説が根強くささやかれている。
この一件の真相は謎に包まれている。手を下したのは、直秀の養父、直英ともいう。でもいずれにせよ、姫が心を押し殺し、津軽家のために行動したことは間違いあるまい。
寛永15(1638)年、満天姫は弘前で生涯を終えた。長勝寺(青森県弘前市)に霊屋(国の重要文化財)が残されている。津軽家は彼女の助けを得て、幕末までこの地で栄えた。
戦国武将のリアル
Sing2022年11月号

「関ヶ原の戦いで徳川家康と関わった武将 福島正則」
東京大学史料編纂所
教授
本郷 和人 氏
今回は幕府に命じられて名古屋城の建設工事に当たっているとき、以前扱った池田輝政にぶつくさ文句を言ったとされる福島正則を取り上げたい。彼は「江戸城や(家康が居住する)駿府城はまだしも、ここは(家康の)側室の子の城ではないか。そんなものにまでこき使われては堪らない」と不満を口にし、池田に「お前は(家康の)婿殿だろう。この事を訴え、何とかしろ」と迫った。するとそれを聞いていた加藤清正が「めったなことを言うな。築城が嫌なら国元に帰って謀反の支度をしろ」とたしなめたという。
こんな調子で福島正則というと、武将としては勇猛かつ有能であるが、おっちょこちょい、短絡的というイメージが強い。けれど、本当かなあ、と私は以前から疑問に思っている。秀吉子飼いの大名として、「文」では石田三成と増田長盛、「武」では加藤清正と福島正則、それに小西行長と浅野幸長。このあたりが20万石ほどの領地を与えられた出世頭である。さらにというと、京都に近い佐和山の石田、大和郡山の増田、秀吉の故郷である清洲を領する福島が代表ということになろう。
秀吉の人事基準は少し変わっている。戦場の槍(やり)働きだけでは出世させないのだ。事務仕事、デスクワークができない者は領地経営の才能なしと見られ、せいぜい3万石どまり(福島と同じく「賤ケ岳の七本槍」に数えられた脇坂安治などが好例)。となると、福島をただの暴れ者とするのは、後世の創作ではないのか。
そうした目で見直すと、福島は朝鮮出兵では補給部隊として活躍している。関ヶ原の戦いの際も、関ヶ原で果敢に戦ったのみならず、黒田長政とともに大坂城にいた毛利輝元と交渉し、毛利を退去させた上で、見事に城の接収に成功している。西軍の総帥の座にあった毛利が西軍残党とともに大坂城に籠城していたら、豊臣秀頼を担ぐ形になっただけに、徳川方は一苦労も二苦労もしただろう。その意味で福島の功績は大きかったし、だからこそ毛利の居城であった広島城と、ほぼ50万石という広大な領地を得たのだ。
福島はずっと秀頼こそを主人だと思っていた、と説く研究者もいる。だが、それなら大坂の陣で、なぜ彼は沈黙したのか。やはり福島は政治的配慮が十分にできる人物で、自らの福島家を繁栄させることが第一の目的であった。そのために秀吉の死後、積極的に家康に近づいたのだ、と解釈すべきだろう。
戦国武将のリアル
Sing2022年9月号

「関ヶ原の戦いで徳川家康と関わった武将 池田輝政」
東京大学史料編纂所
教授
本郷 和人 氏
池田輝政は永禄7(1564)年、織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張国清洲で生まれた。元服してからは照政、のち輝政と称した。父や兄・元助(これが諱【いみな】である。どうにも通称のようだが、文書から間違いない)と共に信長に仕えた。本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、恒興は羽柴秀吉と合流した。秀吉のおい・秀次を恒興の婿に、輝政を秀吉の養子とすることを約したという。
天正12(1584)年、秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いにおいて、父の恒興と兄の元助が討ち死にしたため、池田家の家督を相続し、父の領地であった美濃・大垣13万石を受け継いだ。翌年、同じ13万石で岐阜城に移った。天正18(1590)年には三河・吉田15万に加増された。
文禄3(1594)年、秀吉の仲介により、徳川家康の次女・督姫を娶(めと)る。督姫は関東の覇者、北条氏直の妻であったが、秀吉による北条氏討伐の後は家康の元に帰っていた。すでに輝政には、嫡男の利隆を生んだ糸姫という正室がいたが、実家の中川家(江戸時代は豊後・岡7万石)に帰された。督姫を正室に迎えたことが、池田家に繁栄をもたらす。
関ヶ原の戦いに勝利し、天下人になった家康は、娘婿の輝政を厚遇した。輝政はかつての居城だった岐阜城の攻略にこそ功があったものの、肝心の関ヶ原での決戦ではほとんど活躍していない。そんな彼に播磨・姫路52万石(うち10万石が督姫の化粧料)が与えられた。弟の長吉には因幡・鳥取6万石。督姫が生んだ忠継には備前・岡山28万石。同じく督姫所生の忠雄には淡路・洲本6万石。一族合わせて実に92万石。池田家は西国の外様大名に睨(にら)みをきかせる立場になった。なお、輝政が広大な領地の税収を注ぎ込んで築いたのが、名城として知られる姫路城(白鷺城)である。
慶長18(1613)年1月、輝政は姫路で死去した。死因は中風という。享年50。家督は嫡男の利隆が継いだ。池田家はこの後忠継の早世などもあり、利隆の系統が岡山31万石、忠雄(母は督姫なので家康の外孫)の系統が鳥取32万石を知行して幕末まで続いた。
静岡商工会議所 企画広報室