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​静岡商工会議所 Sing 今月のコラム

駿府静岡の歴史

​Sing2024年2月号

徳川みらい学会 2023年度第5回講演会

家康の大御所時代 ~家康、天下の渡し方~

京都大学名誉教授

藤井 讓治 

石川県立博物館 館長

★徳川みらい学会2023年度第5回講演会(2023.12.8)顔写真【講師=藤井讓治氏】.jpeg

 徳川みらい学会の第5回講演会が昨年12月8日、静岡市民文化会館大ホールで開催されました。

 京都大学名誉教授の藤井讓治氏が「家康の大御所時代 ~家康、天下の渡し方」と題して講演しました。藤井氏の講演要旨は次の通りです。

(文責:企画広報室)

 

はじめに

 一般的に、徳川家康が将軍職を秀忠に譲った時に天下も秀忠の元に移ったと考えられていましたが、それでは説明ができない事柄が多くあります。今回は、家康が手にした天下をいかにして秀忠に受け継いでいったのかという視点でお話をさせていただきます。

 家康が亡くなる直前に土佐山内氏の駿府詰めの家臣が国元に宛てて家康の様子を報告した手紙であります。これは、ほぼ7日に一度の頻度で土佐に送られ、家康のご機嫌、食事の内容や量に至るまで事細かに記されています。この中で注目するのは、家康が秀忠を側に呼び「ゆっくりと秀忠に天下を渡すことができて満足である」と述懐した記述です。なぜ、家康は死の間際に天下の渡し方を「ゆっくり」と表現したのでしょうか。

 

天下人家康 -将軍宣下(慶長8(1603)年2月12日)以前-

 「天下人」は、よく使われる言葉でありますが、当時の史料ではほとんど使われない言葉です。それは秀吉についても同様で、官職などとは異なり「天下人」は誰かが任命するものではなく、世の人々がそう認め呼ぶものだからです。「多聞院日記」という奈良興福寺のお坊さんの日記には、奈良周辺だけではなく京都の出来事も記録され歴史研究の重要な史料です。その中で、慶長4(1599)年に石田三成は7人の武将に攻められた折、伏見から佐和山城に逃れますが、その時伏見城本丸に入った家康を「天下殿ニ被成候」(天下殿になった)と記しています。また、京都北野社の「北野社家日記」では、関ヶ原の戦いに勝って草津までやってきた家康を見て「天下初ニ成申由也」と、ここから家康の天下が始まると記録しています。皆さんがご存知のように関ヶ原の戦いでの東軍の勝利によって家康が天下人になった、ということを当時の人たちは、このような視点で見ていました。

 家康と秀頼の関係は、慶長5(1600)年9月15日に東軍が勝利した後、家康は近江の大津城で1週間過ごしてから大坂に入ります。同月22日に前田利長に宛てた書状の「秀頼様の御座所でもあるので、大坂城を攻めることは遠慮する」という記述からも、秀頼との関係を慎重に扱っていることが分かります。同月27日に大坂城に入った家康は秀頼の元を訪れ挨拶をして大坂城の西の丸に入り、しばらく居を据えました。そして、10月1日以降に関ヶ原の合戦で功を挙げた人々の論功行賞で領知宛行を行います。ただし、このほとんどが口頭での約束でした。これは豊臣政権の大老として差配はできるが、個々の大名に領地を与えることはできない立場だったからです。関ヶ原の合戦からほぼ1年経った慶長6(1601)年10月6日に、家康は秀頼の元に行き暇乞いをしてから江戸に戻ります。そして、翌年3月には上洛をして年頭の礼に大坂に行くというように、家康は秀頼を主人として臣下の礼をとる姿勢を崩しませんでした。しかし、この状況は家康が将軍宣下を受けることで大きく変わっていきます。

 

天下人家康 -将軍宣下以降-

 慶長8(1603)年2月12日に征夷大将軍に補任されて以降、家康は秀頼に臣下の礼をとらなくなります。そして、翌年4月6日には秀頼の使者・片桐且元が伏見を訪れ年頭の礼を述べたように秀頼との立場が明らかに逆転します。まだ微妙な関係でありましたが、将軍家康が上位、秀頼が下位という状況になったのです。

 将軍家康の大名の動員については、将軍宣下からひと月も経たないうちに家康は江戸の大規模開発に着手します。その開発には外様・譜代に限らず東西70人余りの大名たちを動員しました。江戸城普請には西国の大大名のほぼ全てが当たり、彼らを従えていることを具現化しています。寺院に対しては、慶長8年4月10日に雲如梵意に鎌倉景徳寺の住持職を命じる公帖を出します。住持職の任命する公帖の発給は、かつての天下人豊臣秀吉が担っていたもので、これを行うことで天下人の権限の継承を明確にしました。関ヶ原の合戦では領知宛行状を出せませんでしたが、将軍になってからは蝦夷の松前慶広への黒印状や細川忠興に子の忠利への家督相続を承認する御内書などの事例があります。大名への領知宛行権は家康が掌握していましたが、領知宛行状を必ずしも出せていないというのが将軍時代の家康の権力でした。

  

御所家康 -実権の具体像と秀忠への権力移譲-

 慶長10(1605)年4月16日に将軍職を秀忠に譲り、二代将軍秀忠が誕生します。これで家康の権限が秀忠に移ったのかというと、そうではありません。まず家康は江戸城の主を秀忠として、徳川氏の譜代家臣と関東を中心とした所領支配を譲り、大久保忠隣、本多正信といった最も信頼する家臣を付けました。そういった中で、所司代の板倉勝重を自分の配下に残し、本多正信の子の本多正純を側近くに置き、大久保長安、成瀬正成、安藤直次、村越直吉らを年寄衆に抱え、西笑承兌、以心崇伝などの僧侶・学者や外国人など多様な人材を手元に置き全国的な政治を行いました。具体的な内容を見ていくと、寺院政策では公帖の発給を秀忠に譲り、天下人としての権限の一部を秀忠に移譲しています。領知宛行については、慶長9(1604)年8月、まだ将軍職であった家康は、国の村ごとの石高を記載した国郷帳と詳細な国絵図の作成を諸大名に命じます。それらが提出されるのは、慶長10年の秀忠の将軍宣下以降でしたが、これらは将軍秀忠ではなく、大御所家康の元に集められました。さらに朝廷関係、外交の全てを握り非常に大きな権限を持ち、関東には口を出さないが全国の全てを握っているというのが大御所家康でありました。

 そのような状況から、いかに「ゆるゆると」秀忠に天下を移譲していったのかを見ていきます。将軍職襲職後、諸大名は秀忠への礼に必ず江戸に参勤するようになります。秀忠を徳川家の当主とした将軍と大名の関係がしっかりと構築されていきます。この時期の領知宛行も家康が掌握していて、その90%以上の領知宛行状が家康の名で出されていました。そういった中でも秀忠が出した尾張徳川家への領知宛行状が残っています。領知相続の事例では、越後国を領有した堀秀治の跡目について堀家から裁断を求められた家康は、まず秀忠に相談するように促します。そして、秀忠の裁定を家康が担保するという形で相続を行い、将軍秀忠への忠誠を誓わせました。大名の課役について特徴的なものを挙げると、家康は北国・西国の大大名に駿府城の普請を命じ、伏見城から駿府城への財産輸送の夫役を地域の人たちに課しています。一方で、秀忠も丹波篠山城・丹波亀山城普請の大名動員を主導しており、大名たちは家康と秀忠の両方の要請に応じなければならない状況でした。朝廷関係も、かつての家康が全てを掌握していた頃と比べ秀忠が顔を出すようになり、後水尾天皇の即位に際しては、直接家康が執り行ったものの名目上は将軍秀忠が仕切ることが宣言されました。その他、寺社政策や外交でも秀忠の存在感が現れ、権限の具現化が図られていったことが分かります。

 

天下人、徳川秀忠

 秀忠の権力の具現化は大坂の陣前後により顕著になり、かの「一国一城令」は秀忠の裁量で慶長20(1615)年閏6月13日に出されたものであることが史料から分かります。家康が以心崇伝に命じて骨格を作った「武家諸法度」も伏見城で秀忠が同年7月7日に発布しました。元和元(1615)年7月14日には「禁中并公家中諸法度」が家康と二条昭実、そして将軍秀忠の3名の連署で出されました。全ての権限が秀忠に移譲されるとまではいきませんが、秀忠と家康の権限分担によってゆっくり権力が譲り渡されていった過程が見られます。

 家康の死によって天下が秀忠のものになったのかというと、そう簡単ではありません。天下人は、世の人々がそう認めて成立するもので、秀忠が天下を揺るぎなく掌握したのは元和3(1617)年に大軍勢を率いて上洛し、諸大名に領地の安堵の朱印状を発給した段階で秀忠は天下人の地位を揺るぎないものにしました。

駿府静岡の歴史

​Sing2023年12月号

徳川みらい学会 2023年度第4回講演会

五カ国時代の徳川家康

静岡大学名誉教授

本多 隆成 

徳川みらい学会2023年度第4回講演会(2023.10.14)写真【講師=本多隆成氏】.jpeg

 徳川みらい学会の第4回講演会が10月14日、静岡市民文化会館の中ホールで開催されました。

 静岡大学名誉教授の本多隆成氏が「五カ国時代の徳川家康」と題して講演しました。本多氏の講演要旨は次の通りです。

(文責:企画広報室)

 

 天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡すると、德川家康は織田信長から駿河一国を与えられます。そして、同年6月の本能寺の変の後には北条氏との武田氏の旧領を巡る抗争(天正壬午の乱)の和睦によって甲斐と南信濃を領有して、家康は三河・遠江・駿河を含む五カ国を領有する大大名になり、領国支配が本格的に進められました。今回は、この時代の家康の領国支配と駿府築城についてお話します。

 

年貢と諸役

 家康の農村支配について『随庵見聞録』という年貢、諸役の賦課・徴収の記録が残されています。それによると、天正5年8月12日付で遠州吉美郷(静岡県湖西市)に宛てた4ヵ条の年貢定書があり、前年の天正4年に検地が行われ、検地高辻(高の合計)の半分=5割が年貢高とされました。いわゆる「五公五民」です。この年貢米は、給人(家臣)分は宇布見(静岡県浜松市西区)、蔵入(直轄領)分は吉美御蔵に納入するとされています。

 天正10年代の直轄地の支配方針と年貢収取の実態を明らかにする天正10~16年の遠州宇布見郷の年貢勘定書が残っています。勘定書によると、蔵入地宇布見郷の年貢納入に責任者である在地代官・中村源左衛門尉(なかむらげんさえもんのじょう)が納入分については請取が確認され、未納分は早急に皆済するように命じられています。どのようなものが年貢として徴収されたのかというと、鐚銭・米・稗・麦・塩などがあります。鐚銭は悪銭のことで、永楽銭と鐚銭では1対4の比率で換算されていました。

 

農村の開発

 この時期の開発と用水の事例として、天正14年から翌年にかけて剣持正長(けんもちまさなが)が現在の島田市の平内三郎(ひらうちさぶろう)らに荒れ地の開墾を命じています。新たに開墾をすれば、一、二年の間は年貢を免除するという特典で奨励をしています。とりわけ注目されるのが、天正15年と翌年に出された家康の朱印状です。富士郡下方の厚原・久爾両郷(静岡県富士市)に対する指示で、畠から水田に造り直した場合の年貢を畠並みに低くする、新開発した田畠は2年間年貢を免除するという内容で開発の奨励をしました。2年間の免除の後は、奉行人が収穫の状況を見て豊作の時は多く、不作の時は少なく年貢を徴収しました。また、新宿が設立された場合も2年間諸役が免除されました。天正16年には、厚原・久爾両郷で用水に関わる整備が行われたことが記されています。

 

町場と職人支配

 家康は三河から遠江支配の時期にかけて、市場の保護と新市の取り立てを積極的に行い、押買・狼藉・借銭・借米・郷質などを禁止し、市場の保護をすることで商業活動の活性化に取り組みました。戦国大名にとって領国内の職人支配は、築城や武具の調達に欠かせない重要な課題でした。当時、最も多かった職人は番匠(大工)と鍛冶で、続いて石切や大鋸(製材職人)が多かったようです。職人たちは、それぞれの仕事に励むことが原則で人足役は免除されることが普通でした。天正10年には駿河金堀衆への諸役免除、同16年には梅ヶ島の金堀に定書が出され、天正11年には石切市右衛門(いしきりいちえもん)宛てに駿河一国の石切大工を統括させ、石切屋敷を安堵して諸役を免除する内容の朱印状が残されています。

 このように免除や任命が朱印状によって行われていましたが、徳川氏の支配が五カ国に拡大していく過程で発給文書の形式が大きく変化していきます。遠江支配の段階では、家康の判物(花押が据えられた文書)による直接支配が主で、印判状(朱印・黒印状による文書)が普及しても家康の朱印だけで命令がされる直状式印判状という形式がとられていました。しかし、甲斐経略の過程で武田旧臣や寺社に宛て奉書式印判状という主君から命令を受けた発給者が存在する印判状が急速に増加して広がりました。

 

領国総検地

 家康は、天正15年と16年に信濃を除く全所領の給人や寺社に納入される年貢から2%を天引きする五十分の一役を賦課します。この政策は「天正14年に豊臣政権に臣従して上洛や諸役の負担による出費の増大」「居城を浜松から駿府に移して築城を行う費用と新領国の経営のために出費の増加」に対しての緊急の増収策でした。

 また、臨時の増収だけでなく、領国内の人と土地を把握した統治をするために天正17年2月から翌年正月にかけて領国総検地を実施します。検地の過程は比較的良質な検地帳がよく残されている遠江の事例では、徳川氏直属の奉行人によって給人領、寺社領、蔵入地の区別なく郷村単位で一斉に検地が行われました。検地役人が郷村に入り、耕地一筆ごとに丈量をしていき、間竿(検地を行う竿の長さ)は6尺5寸で、丈量単位は太閤検地よりも旧制の単位で計測されました。そして、検地が終わると検地帳が作成され、耕地一筆ごとの等級と面積、田畠の区別、名請人が記載されました。名請人は、分付主(土地の所有者)と土地を耕作する者(分付百姓)を明記する徳川検地の特徴である分付記載がされました。

 検地が終ると原則として検地奉行が奉者となり、検地した郷村に「福徳」の朱印状による七ヵ条定書を交付します。この定書で総検地を踏まえた年貢、賦役の賦課基準が各郷村に通達され、年貢目録が交付されました。これを受取った郷村側が了承したとする請文を奉行人に提出することによって、検地から始まる一連の過程が完結しました。

 この領国総検地は丈量単位などは旧制であったものの、同じ天正期の太閤検地と比べても全く遜色のない内容で、徳川氏の領国支配はこの総検地を経ることによって、近世的な態勢に転換していきました。しかし、せっかくの領国総検地でしたが、関東転封によって検地の結果が家康の手で活かされることはありませんでした。

 

天正期の駿府築城

 2016年度から4年計画で慶長期の天守台の発掘調査が始まり、2018年度の調査で新たな天守台跡と大量の金箔瓦が出土して大きなニュースになりました。同年10月16日の静岡市長の定例記者会見では、豊臣秀吉が家臣の中村一氏(なかむらかずうじ)に命じて築かせた「秀吉の城」だと発表されました。家康関東転封後、駿河は豊臣大名の中村一氏に与えられたため、発見された天正期の天守台は秀吉が中村一氏に命じて築かせたと発表され全国から注目を集めました。この見解は、記者会見で配布された中井均氏(城郭研究家・滋賀県立大学名誉教授)や小和田哲男氏(日本城郭協会理事長・静岡大学名誉教授)などのコメントに基づく評価でした。加藤理文氏(日本城郭協会理事)も同意見で、静岡新聞の夕刊紙上で5回にわたり「よみがえる『豊臣の駿府城』」を掲載し、関東に入った家康を牽制する金箔瓦包囲網説などを主張されました。これに、静岡県地域史研究会幹事の前田利久氏が2019年5月の例会で「秀吉の意向を受けて家康が築城した」と、中村一氏築城説、金箔瓦包囲網説を否定し、翌年には「徳川家康の天正期駿府城について」という論文を『駒沢史学』94号で発表されました。私は、天正期の天守台が発見された当初から『家忠日記』に見られる大天守と小天守の連結式の城という明確な記述などから、家康の築城になるものと考えていました。

 

金箔瓦と小天守台跡の発見

 金箔瓦について千田嘉博氏(奈良大学特別教授・城郭考古学者)の説があり、秀吉が築いた聚楽第や伏見城の金箔瓦は模様の凸部に金箔があり、対して駿府城から出土した瓦は凹部に金箔が貼られています。これは信長の安土城と同じで、もし中村一氏が金箔瓦を作ったのならば秀吉と同じ様式を採用するはずなので、家康が信長スタイルの金箔瓦を葺いたと考えることが妥当で、そうなると金箔瓦包囲網説は否定されます。

 さらに、19年度の発掘調査で、新たに小天守台が発見されて『家忠日記』の記事を無視できなくなり、この時点で中村一氏築城説は否定されます。20年1月7日の静岡市の発表では、家康が秀吉の協力を得て大小の天守閣を築いた可能性が出てきたと変わり、当日配布された記者へのレクチャー資料では、中井均氏も見解を改めています。しかし、天正期駿府城の石垣が秀吉の大坂城で検出された石垣よりも見事な技術で、このような石垣を当時の家康が単独で築いたとは評価できず、駿府城の普請に秀吉が大きく関与していたと考えられるとしています。このような見解は前田説にも見られ、当時の家康は秀吉の要請に応えるだけの財力、技術、工人を持たないため、秀吉は家康に築城を命じただけでなく、指図と支援を行っていただろうといわれています。

 中井氏、前田氏が言うように当時の家康に、独自で石垣や天守を造るだけの技術、工人がなく豊臣政権の支援なくしては築城が不可能だったかどうかが問題になってきます。関東・奥両国惣無事政策を執行して、北条氏・伊達氏・最上氏を豊臣政権下に臣従させる役割を委ねられた状況下で、豊臣政権の要請に伴う駿府城の築城という側面はあったと思いますが、実際の築城については、家康の独自性をもう少し評価してもよいのではないかと考えます。

 

家康の石垣普請

 2020年9月5日に行われた静岡大学と読売新聞社の連続市民講座で、「家康の駿府築城と天守台」をテーマにして講演を行い、石垣と金箔瓦について検討しましたが、今回は時間の関係もあり石垣に絞って進めたいと思います。

 家康の石垣普請の独自性を表す三つの要素があります。一つ目は「家康の元には石垣普請に通じた家臣がいた」ということです。総石垣の城郭と天守閣は安土城が最初と言われ、『信長公記』では安土城天守閣の石垣普請に4名が石奉行に任命されたと記されています。その一人が西尾小左衛門(にしおこざえもん)、後の西尾吉次(にしおよしつぐ)です。吉次は本能寺の変の折には家康の堺遊覧の世話役を務めていて、家康の「伊賀越え」にも同行してそのまま家臣になりました。安土城の石奉行として石垣普請をつぶさに見ていた西尾吉次は、駿府城築城でもその経験を大いに発揮したと考えられます。

 二つ目は、家康のもとには「石垣積」といわれる石垣造りの専門の工人がいたということです。天正16年以前とみなされる正月廿七日付の平岩七助(親吉)に宛てた家康の発給文書では、平岩に一条山での築城を命じ、「石垣積」を派遣すると伝えています。当然、天正15年からの駿府城の築城にも、これら「石垣積」が動員されたと考えられます。

 三つ目は「家康の家臣の中に、隅角石を調えた石垣を造っている者がいた」ということです。鱸氏の市場城には、隅角石を使った立派な石垣が現在まで残っています。天正年間に家臣が、これほど立派な石垣を造っているのにもかかわらず、家康が造れなかったという見解は不自然です。

 駿府城の天正期天守台の隅角石は1mを超える巨大な石材が用いられ、自然石と粗削りの石が混在しています。安定性を保ちながら巨大な石を穴太式の野面積みで積み上げ、隙間を埋める間詰石も沢山使われています。つまり天正期の家康は、織豊系城郭にみられる高石垣の技術が備わっていたとみてよいのではないかというのが私の見解です。このような私の見解に対しては、豊臣氏からの技術提供があったとする立場から批判が出ていますが、他方で、穴太衆は非常に流動性が高かったため、家康はいつでも最新の技術を手にすることができたとする千田嘉博氏の意見もあります。

 中井均氏は最新の発掘調査報告書で、天守台は家康によって天正15年から17年にかけて築かれたとしています。しかし、巨石を用いた高石垣は大坂城よりは古式とはいえ秀吉の援助を考えるべきとしています。以前は大坂城の本丸の石垣より進んだ技術だから家康には造れなかったという主張でしたが、今回は古式で大坂城の石垣よりは劣っているとしながらも技術提供があったとしていることで、その理由に齟齬があり疑問に感じます。また、家康の「石垣積」という専門家集団については触れていません。いずれにしても、これから天正期の駿府城の石垣について、城郭専門家の方々によって様々な研究が進められていくことに期待したいと思います。

駿府静岡の歴史

​Sing2023年10月号

徳川みらい学会 2023年度第3回講演会

徳川家康の生き方

作家

安部 龍太郎 

徳川みらい学会2023年度第3回講演会20230818写真【講師=安部龍太郎氏】講演する安部氏.jpeg

 徳川みらい学会の総会・第3回講演会が8月18日、静岡市民文化会館の大ホールで開催されました。作家の安部龍太郎氏が「徳川家康の生き方」と題して講演しました。安部氏の講演要旨は次の通りです。

(文責:企画広報室)

 

 「こちらから見たらこう見える」「あちらから見たらこう見える」というように、歴史について断定できることは非常に僅かです。現代に例えるなら、裁判で弁護側と検察側が同じ事実を見ているのにそれぞれ解釈が違い、異なる主張をするというように非常に断定することが難しい世界です。しかしながら、私は小説家ですので、自分の歴史観を明確にお伝えするため今日は大胆に断定して話をしたいと思います。

 

大航海時代

 家康の生き方を考えるためには、彼が生きた時代を理解することが重要です。戦国時代の特徴の一つに、日本が初めてヨーロッパ諸国に出会ったことがあります。大航海時代の波に乗ってポルトガルがやって来て国内の産業構造が大転換していきます。そこに目を向けないと、この時代を理解することはできません。ポルトガルとスペインがあるイベリア半島は、西暦718年頃にイスラム勢力に支配され、これを取り戻すことがキリスト教諸国の悲願であり、十字軍を送り続けました。そして、1300年代になって現在のポルトガル地域を支配下に納め、1492年にスペインがグラナダのイスラム勢力を一掃してようやくイベリア半島を再征服することができました。

 これを「レコンキスタ」と言い、この運動の中心にあったのは、キリスト教への信仰心とイベリア半島を奪い返すという情熱でした。そして、この熱気が世界をキリスト教国にしていこうという勢いへと変化していきます。キリスト教化とは、植民地化することです。レコンキスタによって財政難に陥り兵士たちに支払う給料がない状況で、海外貿易、海外収奪で金銭を調達する政策のもとに、スペイン政府、ポルトガル政府が海外の航路の開拓に乗り出し、大航海時代が始まります。スペインは、インドを目指して西に向かいアメリカ大陸に辿り着き、ポルトガルはアフリカを南下して喜望峰を越えてインド航路の開拓をしました。そして、インドのゴアからさらに東へ進出して1540年頃にマカオに達します。

鉄砲とキリスト教と南蛮貿易

 その頃、日本では石見銀山から採れる銀が博多の商人を通じて東南アジアに輸出されていました。その銀は、朝鮮半島から伝わった灰吹法という製錬技術を用いた非常に純度が高いものでした。マカオに進出したポルトガルは、この銀に目を付けて祖国再建の財源にしようと考え、日本へのアプローチを開始します。1543年にポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を伝えたと歴史の教科書で習いますが、漂着したわけではありません。ポルトガル人は、明の海商・王直の船に乗せてもらい鉄砲の売り込みに種子島を訪れたのです。そして惜しげもなくその技術を伝え、日本での鉄砲の生産を後押ししました。もちろん、それはポルトガルの計画で、日本では弾の原料の鉛と火薬の材料の硝石が採れないため、鉄砲の需要が増えればポルトガルが押さえている硝石と鉛が売れるという思惑です。ポルトガル人たちは種子島に鉄砲プラントを作り、日本中から研修生を呼び集め、堺、国友、根来などで鉄砲の生産が始まりました。硝石と鉛、鉄砲の材料に使う軟鋼、真鍮を売る市場を作った6年後にフランシスコ・ザビエルが日本にやってきます。教科書では単に布教に来たと教えていますが、イエズス会は彼等の海外布教の後押しと経済的援助をしていたポルトガルのために、外交官と商社マンの役割を果たしていました。だから、誰に硝石と鉛を売るか、どこで布教するか様々な大名を巡り探しました。鉄砲とキリスト教と南蛮貿易は三位一体で、貿易に参加して、硝石や鉛、新型の鉄砲を買いたいなら、領内でキリスト教の布教を認めてくださいというやり方です。隣の大名が先に彼らとのパイプを築いたら自国が不利になるという危機感から、九州では先を争ってキリシタン大名になり、宣教師の言うことを聞くようになりました。なぜ、宣教師の言いなりになるかというと、日本でも元服をする時に烏帽子親という制度があるように、カトリックでも洗礼を受ける時に洗礼親というものがあり、洗礼親の言うことには神の言葉を聞くように従うと誓約をします。この洗礼親をゴッドファーザーと言います。宣教師に背けない大名を育て、その大名に日本を支配させて植民地化の第一歩を踏み出すというのが、ポルトガルやスペインが世界中で行ってきた植民地化の手法です。

 

植民地化の影

 それにうまく乗ったのが織田信長です。信長がキリスト教を保護した理由は、南蛮貿易に参入したいがためでした。さらに、宣教師たちから最新の知識、軍事技術、天文学、航海学、土木技術などを教わるためでした。そして、信長は鉄砲の大量使用で他の大名たちを圧倒していく存在になっていきます。しかし、信長はイエズス会やポルトガルが日本を植民地化する計画を隠し持っていると見抜いて、いずれ手を切らなければいけないとわかっていました。そして、1581年7月15日に安土城を炎の飾り物で包みアレッサンドロ・バリニャーノを見送ったと言われますが、その裏で信長とバリニャーノの交渉は決裂していました。その後、途端に信長の権力は不安定になっていきます。戦国時代は幕末と同じように植民地化の危機に瀕していました。幕末は、利害関係が違う複数の国が日本の植民地化を目論んでいたため一国だけが突出して手を出すことができない状況でしたが、戦国時代はポルトガルを併合したスペイン一強の時代で、太陽の沈まぬ帝国と呼ばれていました。そのスペインへの対応を間違えれば即座に植民地にされる危機に直面していたことを頭に入れて戦国時代を見ないと、なぜこうなったのかを見落としてしまいます。

  

農本主義から、経済構造の転換

 南蛮貿易が始まったことで大量の商品が入り、貨幣の流通量が増えます。室町幕府が執っていた守護領国制という農本主義、地方分権主義の制度が、商品と貨幣の流通量が増えることで経済構造の転換が起こります。農業を支配していた守護大名が力を失い、商業流通の拠点を抑える地域の有力者が力を持ち始めました。信長の織田家は津島や熱田の港を支配することで港に入る船から津料(港湾利用税)や関銭(関税)を徴収していました。そのため、信長の父・信秀は、たいした所領も持たないのに尾張一国の軍勢を率いて、今川義元や斎藤道三と互角に戦うことができていました。信長はその巨大な利権を引き継ぎました。その信長が天下統一を急いだ理由が二つあります。一つはスペインやイエズス会につけ入る隙を与えないため。もう一つが商業ネットワークの確立です。農本主義であれば全国を支配する必要はありませんが、重商主義では流通掌握の必要があったからです。天下統一を急いだ織田信長、そして豊臣秀吉も、天下を納める正当な理由づけに頭を悩ませました。圧倒的な軍事力と経済力があったとしても、それとは別に大義名分は絶対に必要です。日本の場合、大義名分とは朝廷とどう向き合うかです。これが、信長・秀吉・家康の課題となりました。

 

三英傑が目指した政治

 天才で斬新な部分ばかり強調される信長ですが、彼がどんな国をつくろうとしていたかに目を向けなければ本質を理解することはできません。ここから先は私の推測を交えた見解ですが、信長が目指したのは律令制国家の復活でした。奈良時代に遣唐使たちが持ち込み、大和朝廷を成立させた制度「律は刑法」「令は行政法」、つまり法治国家です。それから、土地は国家の所有物で、その耕作権を国民に与える公地公民。そして、兵士と農民を明確に分ける兵農分離。その中心は、朝廷と天皇です。しかし、信長は当時の朝廷の能力を認めていない節があり、朝廷には任せられないという感覚を持っていました。だから、しばらく自分が朝廷の上に立って律令制の完成を目指しました。それを象徴するのが安土城で、四層と五層の意味を読み解けば信長の政治方針がわかります。四層の白い壁と赤い柱の八角形の造りは、神社と神道のシンボルです。そして、その上に乗る四角形の金箔塗りの建物は禅宗様式です。つまり、日本の天皇を頂点にする神道より中国の禅宗文化が上であるという考えで、唐の律令制をダイレクトに輸入することを構想しています。また、最上階の禅宗風唐様の建物の中には三皇五帝と言われる中国の8人の帝王の絵と孔門十哲という孔子の十大弟子の絵が描かれ、そこにも唐の時代に習った国づくりをするというメッセージが込められていました。しかし、日本人はこういう発想を許しません。「未来永劫、天皇より上に立つ人が現われてはいけない」というメンタリティを持ち、それが信長の非業の死の原因になりました。

 これに対して秀吉は信長の政策を受け継ぎつつ、天皇の上に立とうとして殺された信長を教訓に天皇の下で関白になって操ることを考えます。秀吉の政策は、朝廷中心の王政復古です。しかし、いかようにも操れると考えていた朝廷は、古いしきたり、古い利権、古い考えを保持したままで、新しい時代には対応できないことが明らかになりました。そこで秀吉は、明国を制圧した後に天皇家を北京に移すと手紙に記しています。信長の失敗、秀吉の失敗を見た家康はどうしたか?秀吉は中央集権体制、重商主義体制で富国強兵策を執り、その力を朝鮮半島に向けますが失敗します。7年にわたり15万の兵を送った戦の痛手で、特に西日本で年貢や人夫の徴用に耐えかねて村人が逃げ耕作放棄地が広がりました。そして、逃げた村人が食い扶持を求め都市に流入して治安の悪化を招きました。この再建が家康に課せられた課題で、それは石田三成も同じでした。三成たちは、豊臣家の中央集権体制、重商主義体制を維持して改良していくことを目指し、家康は10年で関東八か国の再建に成功した手法、農本主義、分権主義の体制を目指しました。そして、どちらの政策を支持するかで争ったのが関ヶ原の合戦です。西の大名が三成の政策を支持した理由は海外貿易によって利益を得るチャンスがあったからで、東日本に南蛮船が来ることはまずありません。こうした地政学的な差が西対東の対決を生みました。

 関ヶ原の戦いの勝者・家康の思想的な核は何だったのか?幕藩体制を確立して260年の平和を保つことがどうしてできたのか?その根源は、家康が本陣の旗に掲げた「厭離穢土欣求浄土」です。これは浄土宗の教えですが、敢えてそれを本陣の旗にしています。宗教的な理由だけなら戦場に持ち込む必要はありませんが、いつも本陣に掲げていた理由は選挙スローガンだったからです。この世を浄土に変えていくのだ、そのために我々は戦っているのだというスローガンです。そして家康は、人間に欲と執着があるから敵意を捨てられない。それを克服することが世の中を浄土にするための課題だと考えます。これは極めて仏教的な教えですが、家康はこれを政治制度化しようと、欲を絶つ政治、執着を断つ政治、敵意を無くす政治を実現しようとした。そうしてつくったのが幕藩体制です。誰もが食べることができる格差の無い社会、国土の均等発展を農本主義によって図りました。また、幕藩体制の中には信長が目指した律令制が活きています。それは、公地公民制です。大名たちは、幕府から預かった土地を治めるだけで土地の所有はしません。耕作する農民たちも預かって耕しているだけです。

 江戸時代の士農工商の身分制度は悪い制度の見本のように言われますが、制度には二つの目的があり、一つは貧富の差を拡大する商業を抑制。もう一つが職業を家業とすることで、激しい競争社会ではなく持続可能な社会を目指すことでした。それから、武士たちに厳しい儒教教育を施しました。これは統治者としての責任と倫理観を持たせるためで、統治者として武道と儒教道徳を徹底的に叩き込むことで、武士道というものが成立しました。また、庶民にも仏教や儒教の教えを施し、260年もの間続きました。

 これが現代の日本の職業倫理や公衆道徳の正しさに継承されています。敵意とエゴイズムを制御する政治体制を構築する理想は、実は現代にこそ重要ではないかと思います。私が家康について書いているのは、それを解き明かし伝えたいからです。

徳川みらい学会2023年度第3回講演会20230818写真【講師=安部龍太郎氏】会場内の様子.jpeg

駿府静岡の歴史

​Sing2023年8月号

徳川みらい学会 2023年度第2回講演会

国書がむすぶ外交

-江戸時代から考える-

東京大学

教授

松方 冬子 

史料編纂所

徳川みらい学会2023年度第2回講演会20230619写真【講師=松方冬子氏】DSC_0002.JPG

 徳川みらい学会の総会・第2回講演会(朝鮮通信使講演会)が6月19日、グランシップ「風」で開催されました。東京大学史料編纂所教授の松方冬子氏が「国書がむすぶ外交-江戸時代から考える-」と題して講演しました。松方氏の講演要旨は次の通りです。

(文責:企画広報室)

 

日本の歴史と国書

 日本の歴史で外交を論じる時に何度も国書が出てきますが、国書そのものが学問的に問われることはほとんどありませんでした。まず、中国史においては、基本的に「書」(手紙)は対等な人間同士の間で送られるもので、上下の関係では送りません。例えば、皇帝が出すのは「勅」「勅諭」であり、皇帝に送る場合は「奏」や「表」になります。なので、江戸時代にあたる明や清の時代、皇帝が外国からの「書」(「国書」)を受け取ることはありません。例えば、ヨーロッパ勢力が手紙を送る場合、どこかで中国人が「表」に翻訳し、「書」は来なかったことにされました。

 一方、朝鮮史では、14世紀の末から19世紀の末に存在した朝鮮王朝が、外交文書に用いる「国書」の形式を確立していて、清や明とは冊封の関係で国書を送ることはないため、ほぼ日本に対して用いていました。朝鮮では徳川将軍と朝鮮国王の間で送られる手紙は、日本から送る場合も、朝鮮から送る場合も「国書」と呼ばれました。日本史では、室町時代の後半から他の国の国主からの文書を「書」と呼んでいました。室町時代の初めに明の皇帝と正式な関係を結び、足利義満が日本国王に封ぜられます。これは皇帝からの勅や勅諭を受け取り、こちらからは表を出すという関係です。しかし、勅諭の形式で文書を受け取っても日本では「書」と呼び、これは明の臣下ではないという気持ちの表れと考えられています。徳川将軍が他の国主とのやり取りをする書簡を「国書」と呼ぶ例が出てきますが、多くは来たものを書簡、送るものを返簡とか返書と呼んでいました。17世紀の半ばから19世紀の半ばくらいまでの外交文書のやり取りは、ほぼ朝鮮だけで、朝鮮側は国書と言い、日本側のボキャブラリーは曖昧でした。ペリー来航時の大統領フィルモアの手紙も、当初は幕府の役人は書簡が来たと書いています。ただ、その後の対応についての諸大名の意見の中で、井伊直弼などは「国書」と書いています。

 そう考えると、いま我々が使っている「国書」という言葉の由来は朝鮮通信使にあり、日朝関係が基準になって外交が定義されていたのだと思います。朝鮮通信使は、正使・副使が注目されますが、使節の中で一番大事なのが国書で、江戸城で将軍と同じ上段の間に置かれました。

 外交の世界史の学説は、ほぼこれしかないというぐらい、「平等のヨーロッパVS不平等のアジア」が語られます。もちろん、その視点からの研究で豊かな成果が生まれてきましたが、果たして本当にそれだけなのかと問い、国書をキーワードに考えていきたいと思います。

 

ーロッパと東アジア

 16世紀の半ばに初めてポルトガル人が日本を訪れ、その後17世紀を通じてヨーロッパ人たちは日本のやり方を手探りで理解して、東アジアの外交世界に入り込むことを目指します。

 それは、単に付き合えるかだけでなく商売をするためにいかに交渉ができるかということで、どうしたら手紙を受け取ってもらえるかを考えます。例えば、平戸商館長のフランソワ・カロンは商館長日記に、大老酒井忠勝が平戸藩主に語った言葉として「寛永13年の朝鮮通信使に対する返書の作成に大変苦労し長い時間を費やした」と書き留めています。その発言は「オランダの大使の用件が国王の用件ではなく、商人の用件であるなら関わりたくない」「外交交渉は好きではない」という気持ちが感じられる内容でした。国書は、戦争の援軍について、王の即位についてなど相手との関係を確認するためのもので、通商に関すものではないと考えられていたようです。これは、商館長が日本周辺の外交はこういうものと解釈して書き留めた記述として重要です。

 日本の16・17世紀頃には、国主が送ったことが確実で、途中何事もなく届く国書はあまりなく、室町時代に足利将軍が朝鮮に送ったとされる使節の25%くらいは偽物だったようです。日本と朝鮮のように距離が近く、長い付き合いがあってもそういう状況なので、「でっちあげ」「偽造」「改ざん」は日常茶飯事だったようです。なぜ、そうなるのかを考えると、手紙を運ぶ人にメリットがあったからで、手紙を運びこっそり裏で交渉をしたり、手紙の内容を都合良く書き換えてしまったり、手紙が無ければ自分で作ってしまったり、翻訳する際にごまかしたり、ということをしていたようです。

 

ランダ商館と鎖国

 オランダ東インド会社は、喜望峰より東、マゼラン海峡より西における条約締結権、交戦権、徴税権、貨幣を鋳造する権利、要塞築城権が認められた会社です。また、その地域で貿易は、その社員でないとできない独占会社でもありました。貿易が目的なのにもかかわらず、条約締結、戦争、貨幣の鋳造、徴税の権利を有する存在で、当時の東南アジアの人々はその難しい存在を理解できていないようでした。そもそも当時のオランダ共和国そのものが分かりづらいこともあり、日本人に対しては、そういった説明を諦めているようでした。オランダ東インド会社は、バタフィア(今のインドネシアのジャカルタ)にアジアの拠点があり、東インド総督の下に各地の商館が置かれ、その一つが日本商館でした。日本に初めてオランダ船が来たのは1600年で、1609年に平戸商館が造られ平戸藩主松浦家の下で貿易が始まりました。当初、オランダ船は日本で売れる商品を持って来られず、ポルトガル船を襲って積み荷を奪い、それらを日本に運んで貿易をしていました。しかし、いつまでも海賊をしていられないと台湾に本拠地を作り中国製品を買い、日本で銀と交換するようになりました。ところが、日本の朱印船が台湾で直接中国人と取引をするため、オランダは台湾向けの渡航朱印状の発給停止を目論み使節を送ります。大御所徳川秀忠と将軍家光の好意と恩寵への感謝と使節を信用して話に耳を傾けてくださいと記された信任状的な書簡を運んだ使節のノイツは、厚遇を受けながら江戸を訪れましたが、結局将軍との謁見は叶いませんでした。その時の幕府側の理由が、当時外交を担っていた金地院崇伝の異国日記に記されています。それによると、ノイツが持参した手紙は日本語で書かれていて誰が書いたのか分からないというものでした。また、オランダから日本国主ヘ直接手紙を送ってはいけない、ましてやジャワからなどあるまじきことと記されています。ノイツは、手紙を受け取らず、会いもしてくれないことが理解できず、質問ばかりされる状況に耐えかねて挨拶もせずに江戸から台湾に逃げ帰ってしまいます。

 キリシタン禁令が発布された後、ポルトガル人は布教をしないことを約束すれば滞在を許すという条件を出されますが、約束できなかったために追放されます。当時、将軍は村や町の細かいことに口を出さず、大名領内の統治にも口を出しませんでしたが、キリシタン禁令は厳守させる方針を示しました。その時に残ったのが唐人とオランダ人で、今までよりも厳しく管理されるようになります。オランダ人は長崎の出島に閉じ込められ、唐人は長崎以外の滞在を禁じられ、長崎奉行の管理下に置かれます。

 

ポルトガルと禁教令

 日本を追放されたポルトガル人は、貿易再開を嘆願するためにマカオから使節を派遣しますが、その使節たちは捕らえられて処刑されてしまいます。マカオは中国の皇帝から借りている借地で、マカオだけで解決できないと考え本国の力を借りて相応の身分の人物を使節として送ることを考えます。そして、フィアリヨという人がインドのゴアを経由してポルトガルに向かいました。そして、ゴンサロ・デ・シケイラ・デ・ソウザという人がポルトガル国王の使節として船に乗りますが、このソウザはゴアのポルトガルの拠点で活動していた人物で、ポルトガル語の史料によるとフィアリヨが、ソウザを船室に閉じ込めたという記述があり、ソウザが本当にポルトガル本国からの使節なのか、それともゴアで仕立てたのか不明です。その後の航海も七難八苦で、敵であるオランダに助けてもらって日本にたどり着くという悲惨な状態でした。ようやく長崎にたどり着いても、そこで待っていたのが尋問で、日本側は奉行に示すために書簡を渡すことを迫り、対してポルトガル側は渡すことができないと拒否します。その理由は、書簡は信任状だから将軍に直接渡して話をするまで手放すことはできないというもので、「その決心を見て日本人は直ちに帰った」とポルトガルの記録には残っています。ただ、これは使節が国元で報告した内容であるため鵜呑みにすることはできません。ポルトガル使節の手紙は残念ながら現存していませんが、日本の記録にはゴアの国書と記されていて日本側の認識ではゴアから来たと考えていたのかもしれません。結果として、手紙は受け取られず使節はそのまま帰ることになりました。この対応にあたったのが島原藩主、豊後藩主、馬場長崎奉行で、老中下知状に「日本に対し身命を捨ててご奉公をしますと手紙に書いてあったが、そう思ってもらう筋合いはない」とあります。日本側はキリスト教の布教をしないと、確かな書類で約束をするなら考える余地はあったが、それに一切触れていないため何を申し立てても受け付ける筋合いはないと考えたようです。

 

レスケンス号事件

 ポルトガル人たちが、帰りがけに途中でオランダ人に助けてもらったと伝えたことが諍いの種になります。ポルトガル人を助けたこと、それを報告しなかったことが将軍のご不興を買ってしまいます。これにオランダ商館長たちは対策を考えますが、この件を直接解決することは難しいという結論に至り、ブレスケンス号事件のお礼の使節を送ることで将軍のご機嫌を取ることを画策します。ブレスケンス号事件は、オランダ東インド会社船が南部藩の山田浦に入港したところ、キリスト教布教の嫌疑で捕らえられ江戸へと護送されますが、家光の寛大な沙汰でオランダ人は解放されたというものです。この時のお礼に本国からの使者と手紙を用意するのですが、結局本国から手紙を書いてもらうことができず、現在のインドネシアのバタフィアに暮らす日本人に書簡を書かせて仕立てます。この手紙は残っていませんが、オランダ語訳が伝わっています。

 東インド総督が長崎奉行に向けて手紙を送り「ブレスケンス号事件で将軍の大きな慈悲に、オランダの上司閣下方が最高に感謝をして特別な使節を送り感謝を伝えること。感謝を示す書面を添えたいが、それが適切か、オランダ語の書面が気に入られるか不安で、最良の方法を用いるため長崎奉行の二人にご引き立てとご援助をお願いする。」という内容で、総督から奉行に宛てた手紙であるものの、その中身はオランダにいる偉い人が将軍に宛てた手紙として機能する内容でした。しかも、余計なことは書かずに、ひたすらに感謝を述べる非常によくできた手紙です。この手紙によって将軍の不興は解消されました。

 

ターン号事件

 イギリス人は、1613年に日本を訪れて貿易を始めますが、上手くいかないと見切りを付けて1620年代には日本貿易をあきらめます。1670年代に契機があって東アジアの貿易を再興しようと国王チャールズ2世の手紙を携えてイギリス東インド会社の船がアジアに戻ってきます。現在のインドネシアのバンテンにイギリス商館があり、そこを経由して手紙を送ることになります。イギリス人たちは、日本との貿易に自信満々でやってきていて、その理由は過去に将軍から朱印状を貰い日本に来ることを許可されていたからでした。しかし、その朱印状は日本を去るときに返してしまっていましたが、以前許可が貰えたから絶対大丈夫と貿易を始める気満々で日本を訪れますが、結果的に上手くいきませんでした。その最大の理由は、イギリス王家とポルトガル王家の間に縁戚関係があったことで、イギリス人が日本に受け入れられないようにオランダ人が中傷していたためです。さらに、イギリス人たちが持ってきた手紙の英語版が残っていて、その内容がどう見ても商人のもので、例えオランダ人の中傷がなくてもダメだったのではないだろうかというものでした。しかも、書き始めに「全能の神」と必要の無いことが書かれている有様で、日本人のことが全く分かっていないようでした。この後100年以上ヨーロッパ勢力の使節は来ていません。

おわりに

 そして、200年近く後、オランダ国王ウィレム2世からの開国勧告の国書が届きます。翌年、徳川政権はずいぶん考えて返書を書きます。国王から将軍に届いた国書の返事は、将軍から国王宛てに書くことが礼儀ですが、あなたの国と国書の往復をしませんという内容だったため、老中から相手の大臣宛の手紙になりました。この手紙に「通信の国」と「通商の国」という言葉が出てきて、「通信は朝鮮と琉球に限る」「通商は貴国(オランダ)と支那(中国、清朝)に限る」と記されています。これは徳川政権が自分で外交をはっきり説明したものです。

 ヨーロッパ人の涙ぐましい外交の努力は大抵が失敗で、上手くいった事例も何が良かったのかが説明できない状態でした。その中でも、こっそり分かっているヨーロッパ人だけが、日本人は「こういう対応」というノウハウがあったのだと思います。平等なヨーロッパと不平等なアジアを、こういった目線で見れば違って見えるのではないだろうかと思います。

駿府静岡の歴史

​Sing2023年7月号

徳川みらい学会 2023年度第1回講演会②

磯 智明チーフプロデューサーが語る

大河ドラマ『どうする家康』制作秘話

★徳川みらい学会第1回講演会②講演(2023.4_edited.jpg

 徳川みらい学会の徳川家臣団大会・第1回講演会が4月16日、静岡市民文化会館大ホールで開催されました。第1部は、同会会長の小和田哲男氏、同会名誉会長で德川宗家第19代当主の德川家広氏、そして家康公を支えた家臣で「徳川四天王」と呼ばれた酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の子孫現当主4氏を交えた6人により『設立10周年記念シンポジウム』が行われました。(※開催概要は本誌6月号に掲載済)

 第2部では、NHKチーフプロデューサーの磯智明氏に大河ドラマ「どうする家康」の制作秘話を語っていただきました。

 磯氏の講演要旨は次の通りです。

(文責:企画広報室)

 

 徳川家康の生涯を描くというのは、戦国時代の主なエピソードのすべてを盛り込むようなフルコースのドラマを作るということです。先ほど徳川家臣団のご子孫からお話を聞かせていただきましたが、ドラマの制作サイドの視点からすると、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いという、あの数々の戦をよくぞ生き抜かれたと驚かされます。数々の大河ドラマに携わっても、こうして登場人物のご子孫にお会いする機会は、ほとんどありません。それは、多くの家が戦乱の途中で滅んでしまったからですが、徳川の皆さんは生き残り、こうして現在に続いているということが、とても素晴らしいことだと思います。そして、そのいかにして生き残ってきたのかを描いたのが、正にこの「どうする家康」というドラマです。今回の徳川家康は、何でもできる特別な能力がある人物として描いていません。しかし、だからこそ他の人の力を借り、人の気持ちがわかるという優れた点が浮き彫りになり、そこに注目して家康の成長と、どうやって危機を乗り越えたのかという物語を作っていきたいと思います。

 「どうする家康」の脚本を手掛けるのは、脚本家の古沢良太さんです。若者を中心に人気があり、「リーガル・ハイ」、「コンフィデンスマンJP」や「映画ドラえもん」の脚本を担当しています。古沢さんが徳川家康の大ファンということが、この企画のスタートでした。古沢さんは、自分のヒーローである徳川家康を、いろんな世代の人たちが共感できる等身大のヒーローとしての物語が描けるのではないかと考え、小和田哲男先生のお知恵をお借りしながら脚本の流れを作っていきました。

 今回のドラマでは、今川義元と家康のつながりを非常に深く描いています。第一話の桶狭間の戦いで義元は退場しましたが、ことあるごとに回想シーンで登場して、いわば家康の根幹を作ったのが義元であると描いています。徳と仁と思いやりで国を治める王道と、力で国を治める覇道。家康は、義元から王道を尊ぶべきと教えを受け戦乱の時代を最後まで戦い抜きました。その理想を失わなかったからこそ300年も続く平穏な世を作れたという仮説を基にドラマを作っています。

 歴史研究が進むことで、かつて通説とされていた解釈が変わり、不遇と考えられていた人質時代も、当時の日本の最先端の文化都市・駿府の暮らしが江戸を築く礎となったのではないかと推察されます。そして、家康と正室・瀬名が本当に不仲だったのか、なぜ今川氏真を助けようとしたのか、歴史で起きた事件と結末は変わりませんが、そこに至るプロセスを検証してストーリーを描き、今までの家康の人物像とは異なる、知的で繊細で優しく人の愛情がわかる人物に描いています。

 

徳川家臣団と四天王

 今回の家康は、一人で何でもできる人物ではなく、家臣団たちがいたからこそ天下統一が実現できたという考えをベースにしています。裏切りが相次ぐ戦国の世で、特に強い絆で結ばれた徳川家臣団、そのつながりをドラマの柱としています。

 

本多忠勝

 まず、本多忠勝を演じる山田裕貴さんです。今の若い俳優さんは、勉強熱心で演技にひたむきな方が多く山田さんもその一人です。ご存じかも知れませんが、山田さんの父親は元プロ野球選手で、その血筋から非常に身体能力が高くアクション作品でも素晴らしい活躍をされています。

 芝居に対する熱意も人一倍で、そういった熱い人物に本多忠勝を演じていただきたいとお願いしました。忠勝は槍の名手で、長い槍を振り回す殺陣がありますが、あの重い槍を操るだけでも相当な腕力と運動能力が必要で、彼は早い時期からこのトレーニングに入っています。何食わぬ表情で槍を振り回す芝居をしていますが、高度な身体能力と演技力が必要で、特に第一話の海のシーンで忠勝は馬に乗りながら槍を投げます。まず、浜辺で馬を走らせることが非常に難しく、しかも手綱から手を離して槍を投げるという高度なアクションは彼だからこそできたのだと思います。

 そして、第二話の大樹寺で家康の切腹の介錯をするシーンで、忠勝は涙をボロボロと流します。

 実は、台本には泣く芝居はなく演じるうちに自然と涙がこぼれてきたということで、そういったように芝居を膨らませてくれるのも山田さんの魅力です。

 

井忠次

 酒井忠次を演じる大森南朋さん。「海老すくい」を踊る人というイメージが強いですが、大森さんも楽しく演じられていて制作サイドもほっとしています。先ほど小和田先生から説明があったように、忠次は家康の15歳年上で、父というより兄貴分という関係性で、チームの和を大切にする人物です。忠次の史料があまり残っていないのも自分よりも周りを立てたからなのかもしれません。時々問い合わせを受ける「海老すくい」についてですが、あれはドラマのオリジナルの踊りです。戦国当時の特に歌や歌詞、節などの音楽がなかなか現代に伝わることがなく「海老すくい」は、日本の芸能に造詣が深い友吉鶴心先生に当時であれば、こういう節であろう、音階であろうと曲を作っていただき、物語の舞台である三河の地名を入れて歌詞を作り、踊りも考えました。大森さんは、家臣団の役者さんの中でもムードメーカーで、まとめ役を果たしていて、本当に松本潤さんの後見役を担っていただいています。

康政

 続いて、榊原康政役の杉野遥亮さんです。杉野さんは、ここ1・2年でぐいぐい来ている役者さんで、彼の良いところは、芝居に嘘がなく誠実なところだと思います。僕の榊原康政像も正にそういう人物で、彼が家臣団のトップに上り詰めることができたのは、野心ではなく、その人柄や才能、知識があってこそだと思います。忠勝と康政が先頭に立って徳川を支えるようになり、忠勝が持っていない部分を担ったのが、榊原だったのだと思います。

 榊原康政は、真面目で武功だけを見ると派手さはありませんが、戦乱の世だけでなく太平の世にも必要な人物だったのだと思います。また、そういった資質を見抜き傍に置き、きちんと育てたことが家康の素晴らしいところだと思い、家康と榊原の関係を描いていきたいと思っています

 

伊直政

 四天王のもう一人、井伊直政。彼は井伊谷の出身で三河の家臣団ではありません。途中から家臣に加わった直政が、後々重要なポジションに就いていくというのが徳川家臣団のダイナミックなところだと思います。もともと今川家に仕えていた井伊家は、今川家が滅んだことで武田と徳川のどちらに付くかという選択で徳川を選びます。なので、直政は最初から家康を信頼していたわけではありません。だからこそ、家康も直政のような人物から信頼を得て初めて諸外国を治められる武将として認められると考え、関係を深めていきます。後に直政は、家康から武田の遺臣たちの面倒をみるように命じられるのですが、直政が徳川の譜代の家臣ではなく徳川に恨みのあった井伊だからこそ、武田と徳川の関係を結ぶ人物として重要だったのだと思います。

 井伊直政を演じる板垣李光人さんは、前回の大河ドラマ『青天を衝け』の徳川昭武役が記憶に新しいと思いますが、非常に品のある顔立ちをされています。井伊家という由緒ある家柄を背負うということは、能力と同じくらいに風格や気品というカリスマ的なイメージが必要と考え、板垣さんにはそれがあると感じ、井伊直政役をお願いすることにしました。本多・榊原と先輩後輩の関係になりますが、直政の向こう気の強さが刺激になって徳川家の快進撃を支える存在になっていきます。

 

川家康と家臣の関係

 ドラマを作っていて非常に面白いと感じたのは、井伊直政、本多忠勝、榊原康政が常に一緒にいるという関係で、これは戦国時代に本当に珍しく徳川家臣団ならではの関係性が伝わる魅力だと思います。また、家康の江戸転封に伴い、家臣団が地方に散らばるのですが、その家臣たちがそれぞれ地方の礎を築いている点も注目すべきところで、これは武将たるもの国を治めるのが一番の責務であると家康から学んでいたからこそと想像ができ、戦乱の混沌とした世にそういったビジョンを持ち家臣を育てたという点も家康の凄さの一つだと思います。

駿府静岡の歴史

​Sing2023年6月号

徳川みらい学会 2023年度第1回講演会①

設立10周年記念シンポジウム

家康公が切り拓いた泰平の世

~今こそ、学び、実践する時

★Sing2023年6月号 今月のコラム「駿府静岡の歴史」写真【設立10周年記念シンポジウム】.jpeg

小和田 哲男 

徳川みらい学会会長

静岡大学名誉教授

德川 家広 

德川宗家19代当主

德川記念財団理事長

「徳川四天王」子孫の現当主

酒井家18代当主

本多家22代当主

榊原家17代当主

井伊家18代当主

酒井 忠久 

本多 大将 

榊原 政信 

井伊 直岳 

 徳川みらい学会の徳川家臣団大会・第1回講演会が4月16日、静岡市民文化会館大ホールで開催されました。第1部は、同会会長の小和田哲男氏、同会名誉会長で德川宗家第19代当主の德川家広氏、そして家康公を支えた家臣で「徳川四天王」と呼ばれた酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の子孫現当主4氏を交えた6人により『設立10周年記念シンポジウム』が行われました。第2部では、NHKチーフプロデューサーの磯智明氏に大河ドラマ「どうする家康」の制作秘話を語っていただきました。

 シンポジウムの開催概要は次の通りです。

(文責:企画広報室)

 

<小和田 氏>

 会場の静岡市民文化会館が建つ場所は、実は江戸時代、駿府城三ノ丸の一角でした。四百年の歳月を経てこの場所に家康公と四天王のご子孫が揃うのは、おそらく初めてで、ここでこうして対談ができることは非常に光栄であり、記録に残る出来事だと思います。

 まず、大河ドラマ「どうする家康」で、皆さんの祖先を演じられているタレントの方々への感想を、今までのドラマとは違った描き方をされている徳川家康公を演じる松本潤さんへのご感想を德川家広様、お願いします。

 

<德川 氏>

 とある新聞の取材で「家康公と比べて、ご自身の性格は優柔不断なんでしょうか?」と、いきなり質問されて驚いたのですが、どうやら大河ドラマの松本潤さんが演じる家康公のことだったようです。織田・武田・今川に囲まれた五万石くらいの小さな大名家は、必死で何をするにも悩むのが当然で、一つ間違えたら滅びる緊張感を通り越した恐怖感を持って日々を生き抜いていきました。それを、わかりやすくするために主人公のキャラクターに落とし込み、お腹が痛くなったり、お母さんが怖かったり、奥さんが怖かったり、これは全部、三河松平家全体の運命を暗喩した表現だと思います。しかし、そうして悩んでいたのは、おそらく本当で、そこに共感していただける作りがとても良いと思います。多くの方々が感情移入できる家康公になっていると感じます。

 

<小和田 氏>

 続いて、酒井忠久様にお願いしたいと思います。海老すくいで家臣団をまとめる家康公の重臣筆頭、第一の功臣、酒井忠次を演じる大森南朋さんの姿を見ていかがですか。

 

<酒井 氏>

 これまでのドラマで描かれた酒井忠次は、早々に退場する印象で、今回はかつてないほど出番が多く大森南朋さんの光る演技力とともに楽しみにしています。以前、たまたま見たテレビに大森さんが出演していて、海老すくいの踊りを3ヶ月がかりで練習したという話を聞きました。古文書に海老すくいの記述(北条氏政、氏直と徳川家康会見しその余興として忠次は『海老掬川の舞』を披露「御世紀」)or『夷舞い』「譜牒余禄」)は出てくるものの、それがどのような踊りだったのか残念ながら酒井家に伝わっていないので、ぜひ大森さんから伝授していただきたいと思っているところです。酒井忠次は家康公よりも16歳年長ですので、後半の出番は少なくなるかと思いますが、これからもとても楽しみです。

 

<小和田 氏>

 あまり知られていないようなエピソードも、今回のドラマでは描かれているのが印象的です。また、最初から酒井忠次と石川数正の二人が家康公を支えている描き方をしていて、その辺もとても良いと思います。

 続いて、本多大将様にお願いしたいと思います。戦国最強武将と言われ、家康公に意見をぶつけ、時には生意気な口を利く本多忠勝を山田裕貴さんが演じられ、初回の浜辺のシーンがとても印象的でした。

 

<本多 氏>

 どのような登場をするのか気になっていましたが、とても格好いい登場だと思いました。ただ、やはりドラマということで、あの場面で家康公が忠勝を知らないというのはおかしいなと感じたのと、また別のシーンで忠勝が家康公を蹴っている姿に、それはないのではないかと驚かされました。個人的な感想ですが、今まで大柄な方が忠勝を演じられることが多く平均身長が150㎝程の時代に忠勝は160㎝とそれほど大きくはなくて、今回の山田さんがとてもイメージに合っているように思います。

 

<小和田 氏>

 戦国武将の平均身長は明確ではありませんが、やはり150~160㎝ぐらいだと考えられ、あまりにも大柄な俳優さんが出てくると私も違和感を覚えます。

 続いて、榊原政信様にお願いしたいと思います。打ち合わせでは、あまり大河ドラマを見ていないと話されていましたが、今回のドラマでは「厭離穢土欣求浄土」という言葉を杉野遥亮さん演じる榊原康政が家康公にお伝えしたという通説とは違う描かれ方をしています。

 

<榊原 氏>

 NHKさんには申し訳ないですが、もっぱら見るのはニュースかスポーツ番組で一度も大河ドラマを見たことがありません。私自身がドラマというものがあまり好きではないことと、ドラマの作られた世界観に自分が思い描く榊原康政像が失われてしまうように感じるからです。しかしながら、皆さんにはこれからもドラマの康政が活躍する場面が出てくると思いますので、楽しみに見ていただければと思います。

 

<小和田 氏>

 ドラマでどう描かれるか、ご子孫には不安なところがあるのだろうなと感じました。榊原康政と本多忠勝は、徳川家臣団の旗本先手役という切り込み隊長として、次々と武功をあげる姿が描かれると思いますが、これから新しく加わる板垣李光人さんが演じる井伊直政。以前のNHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」に登場した井伊虎松が万千代と名乗り、家康から井伊直政という名前をもらいます。そのご子孫の井伊様、お願いします。

 

<井伊 氏>

 井伊直政役の板垣李光人さんは、とても男前で「どうする家康」のキャストの方が出演された番組を見て写真よりもさらに男前に感じた記憶があります。井伊直政も美少年だったという説があるようで、それに合った配役に感じます。井伊直政の死後、まもなく描かれたとされる肖像を見ると、美男子というより、すごく怖い印象に描かれています。戦国の厳しい時代を生き抜き、若かりし頃の美少年から厳しい顔になっていったのかもしれません。これまでのドラマで直政役といえば、比較的年配の方が演じられる傾向でしたが、直政が亡くなったのは数え年で42歳のときです。「おんな城主 直虎」では若い菅田将暉さんが演じられ、また今回も若い板垣さんが演じられるということで、どんな直政が見られるか楽しみです。

 

<小和田 氏>

 ありがとうございました。現在放送中の「どうする家康」に登場する徳川四天王のご先祖の皆さんを、現在のご当主の方々がどうテレビを見ているかをお話していただきました。ここからは視点を変えて、それぞれの家に焦点を当てて深掘りしていきたいと思います。酒井様は、山形県鶴岡市で致道博物館の館長をされています。忠次公関係の所蔵のお宝についてお教えください。

 

<酒井 氏>

 なんと言っても、致道博物館には二振の国宝がございます。一振は、徳川家康公から拝領した太刀銘信房作附糸巻太刀拵。もう一振が、織田信長から拝領した真光という太刀がございます。太刀・刀というと怖いイメージを持たれるかもしれませんが、非常に綺麗な芸術品で三種の神器以来、古来より象徴としても伝えられてきました。現在、刀は美術工芸品として扱われていますが、戦後、米軍は刀は武器で没収という美術刀剣の絶滅の危機に際し全国の刀剣愛好家が美術工芸品として後世に伝えるために日本美術刀剣保存協会を設立し現在まで刀剣を伝えてきました。

 酒井忠次は晩年、家督を家次に譲った後に豊臣秀吉から若い人たちに武辺話をしてくれと請われて京都に住み、墓所は知恩院にあります。(忠次長男次男は諡一字を家康公からいただいて家次・康俊として活躍しました。長子家次は忠次の跡をとり、吉田、碓井、高崎・高田の藩主として転封をかさね、次男康俊は本多忠次の養子となり西尾から近江膳所の藩主を務めました。知恩院墓所には、父忠次の墓を中心に守るように囲んで康俊はじめ本多家の墓域になっている。)

 

<小和田 氏>

 家康は、酒井忠次を年の離れた兄のような存在として慕っていたように思います。天正3年(1575年)5月21日の長篠・設楽原の戦いに援軍として駆けつけた信長との軍議で、忠次の提案は信長に一蹴されてしまいます。しかし、軍議の後で信長に呼び出された忠次は「見事な作戦だった、それをお前が実行しろ」と命じられます。信長は、情報の漏洩を警戒し敢えて作戦を却下したのです。忠次の活躍で武田軍は設楽原に追い出され鉄砲の餌食になりました。まさに忠次は信長も賞賛する武将でした。その遺品がこのように鶴岡に残っているのは、本当に奇跡のようです。

 次は、本多大将様にお願いしたいと思います。忠勝公といえば、有名な黒ずくめの鎧と鹿角の脇立ての兜ですが、面白いエピソードがあればぜひお願いします。

 

<本多 氏>

 岡崎で一度公開させていただいた資料に手を加えて持ってきました。忠勝の甲冑は、黒糸威胴丸具足と言い、鹿角が印象的な兜は鹿角脇立兜と言います。兜の鹿角は外すことができ、採寸時に撮影した動画と画像があります。鹿の角の部分だけをお見せすることはほとんどなく、岡崎に続き今回が2回目です。この重量を計測すると片側約300gと軽く、兜そのものがとても軽く作られています。このような兜と鎧の軽さによる軽快な動きが、忠勝の強さの一つだったと思います。おそらく11月頃に静岡の美術館で忠勝の甲冑が公開されますので、機会があればぜひ見ていただければと思います。

 

<小和田 氏>

 普段見られない、鹿角兜の細部を見ることができて勉強になりました。続いて、榊原様のお母様が徳川慶喜公のお孫さんとうかがっていますが、その辺のエピソードはありますか。

 

<榊原 氏>

 母が慶喜様の孫で、私はひ孫にあたりますが、母からこれといったエピソードを聞いたことはありません。大政奉還後に江戸城を出た母たちは第六天に居住し、慶喜様もしばらくの間いらっしゃったようです。しかし、慶喜様がどういった人となりで何を嗜好されたかというようなことは聞いていません。母は、その第六天で廊下の長さが100m以上ある家に住み、今では想像もできないような暮らしをしていて、結婚するまでお金の使い方を知らなかったようです。特に慶喜様の思い出はありませんが、カメラがお好きだったと聞いたことがあります。

 榊原家は、三重県津市の榊原温泉周辺の榊原村の出身で、御榊を植えて伊勢神宮に奉納する集落に由来して榊原という名となりました。その関係から伊勢神宮の宮司を務めた先祖もいると聞きます。そして、康政の二代前の先祖がそこから出て、松平家に仕えて徳川様とご縁ができました。

 

<小和田 氏>

 続いて、井伊家の宝物類が滋賀県彦根市にある彦根城博物館に展示されていますが、こちらについて館長の井伊直岳様、お願いします。

 

<井伊 氏>

 彦根城博物館は、彦根城の内堀の内側にあった彦根藩主の本宅であると同時に政治を行っていた表御殿の復元を兼ねて建設され、昭和62年(1987年)2月に開館いたしました。収蔵されている資料の中心は、彦根藩井伊家伝来の美術工芸品と古文書など約4万5千点で、その他彦根や彦根藩の関係資料を含めると9万1千件を超えます。常設展示では「“ほんもの”との出会い」ということで、井伊家伝来の大名道具を中心に「武家の備え」「幽玄の美」「数寄の世界」「雅楽の伝統」「風雅のたしなみ」「古文書が語る世界」という6つのテーマに沿った展示をしています。お近くにお越しの時には、ぜひお立ち寄りいただければと思います。

 

<小和田 氏>

 井伊直政というと、やはり井伊の赤備えが思い浮かびます。関ヶ原合戦図屏風にも赤い鎧、赤い旗の井伊家の軍団が目立ち見事に描かれています。この関ヶ原の戦いで徳川本隊として参戦した四天王は本多忠勝と井伊直政の二人だけでした。酒井忠次は老齢で、秀忠付きの榊原康政は上田で足止めをされて間に合いませんでした。井伊直政は、徳川の世をつくる戦いを豊臣大名に任せてなるものかと、すでに家康から先鋒を任されていた福島正則の横までするすると前進して布陣して、鉄砲を射かけて関ヶ原の戦いの口火を切ります。徳川軍の意地を守った直政でしたが、この後に島津の退き口で受けた鉄砲傷が原因で2年後に亡くなります。

 この彦根城博物館には、当時の武具や古文書が残っています。彦根城は、国宝天守五城の一つに数えられ訪れる方が多いですが、お城だけではもったいないので博物館もぜひ見ていただければと思います。

 最後に今日の感想を含めて、井伊様から順にひと言ずつお願いいたします。

 

<井伊 氏>

 昨年コロナ禍の影響が少なくなってきた辺りから、德川様、酒井様、榊原様、本多様とお会いする機会が増え、去年以降、愛知県岡崎市、広島県福山市、山形県鶴岡市と東京でもお話をしましたが、本日こうして初めて德川家と御縁の深い静岡市を訪れ、まちの様子を拝見して素晴らしいまちだと思いました。

 

<榊原 氏>

 康政の孫の忠次が、現在の掛川市の大須賀家の養子に行った経緯から静岡とご縁があり、大須賀町の三熊野神社のお祭りに呼んでいただいています。榊原家は、移動が多く財宝的な物がほとんどなく古文書だけが沢山残っており、それらは新潟県上越市立歴史博物館に寄託し、管理をしていただいております。上越市に和親会という公益財団法人があり、同会にご連絡いただければ閲覧できるようにしています。

 

<本多 氏>

 今まで静岡とそれほどご縁がありませんでしたが、これから静岡で忠勝の甲冑の公開が予定されていますので、これからもこのような機会があれば来たいと思っています。お時間や機会があれば、忠勝の甲冑をぜひ見に行ってください。ありがとうございました。

 

<酒井 氏>

 静岡市といって連想するのは、やっぱり德川家との密接な関係だと思いますが、なかなか来る機会がなく今回初めてゆっくりと訪れ、お話ができたことを嬉しく思っています。昨年行いました酒井家庄内入部400年記念事業に德川家と徳川四天王の関係者の方々がおいでくださり、大いに盛り上げていただき、ありがとうございました。これからの德川家と静岡市の益々のご発展をお祈りいたします。

 

<小和田 氏>

 ありがとうございました。最後の締めということで、德川家広様にお願いいたします。

 

<德川 氏>

 この静岡市で徳川四天王の皆様とこうして対談ができたことは、本当に喜ばしいです。家康公にとって駿府時代は計3回あり、人生の安定している時期をいつも駿府で過ごしていましたので、駿府は家康公にとって良い思い出ばかりの場所だったと思います。そして、いつもその時には四天王の皆さんのご先祖様たちが近くで待ってくれていました。今日こうして家康公のご命日の前日にここで皆様と集まり、各家に伝わるお話ができたことをとても喜ばしく思います。

 ご来場いただきました皆様、ご清聴ありがとうございました。

駿府静岡の歴史

​Sing2023年5月号

徳川みらい学会 2022年度第6回講演会②

対 談

首都機能を備えた江戸時代の駿府

徳川みらい学会2022年度第6回講演会②対談20230218写真【大石学氏、中村羊一郎氏】_edited.jpg

​静岡市歴史博物館

館長

中村 羊一郎 

東京学芸大学

名誉教授

大石 学 

 徳川みらい学会の第6回講演会が2月18日、静岡市民文化会館大ホールで開催されました。

第1部は、東京学芸大学名誉教授の大石学氏が「近世初期の駿府と江戸 近世国家と首都 ー「駿府首都論」によせてー」と題して講演しました。(※講演要旨は4月号に掲載済)

 第2部では、同氏と静岡市歴史博物館館長の中村羊一郎氏による対談が行われました。

 対談要旨は次の通りです。

(文責:企画広報室)

 

中村 氏

 先ほどは、大石先生から興味深いお話を伺うことができました。私のほうでは、ちょっと違う角度から駿府の黄金時代についてお話します。そして、その後二人でなぜ駿府が首都と言えたのかについて話し合ってみたいと思います。

 大石先生のお話にも駿府城の天守閣が重要なポイントになるという示唆がございました。駿府城の天守は、外見が五層で中が七層になっていたようですが、意外なことに、これは全国に知れ渡っていたようです。徳島県鳴門市の神踊りという郷土芸能には、駿府の詳細な地名と七重の天守が見事とたたえる文言が出てきます。さらに、滋賀県甲賀市の油日(あぶらひ)神社という神社に伝わる太鼓踊りでも、七重の天守と駿府の地名が歌われています。そして、これが現在も現地では静岡の駿府城を歌ったものと知らずに歌い継がれています。私が注目するのは、最初に紹介した神踊りです。

 徳川家康が大御所時代に、この神踊り、別名伊勢踊りが駿府の町で大流行しました。慶長20年(1615年)3月20日の『駿府記』の記述に「従今日府中伊勢踊りと号し、諸人在々所々致風流、是従勢州躍出、奥州迄踊之云々」とあり、伊勢神宮から始まった踊りが駿府を経て大々的に広まった様子が記されています。また、事実か定かではありませんが、駿府城下の遊女たちに家康がお城の中で踊ってみせよと命じたという話が伝わっています。こうした大流行の背景には、莫大なお金と権力が必要です。つまり、当時の駿府に新しい波を起こすだけの財力と権力があったことがわかります。これだけ流行した踊りも金と権力が無くなると消えてしまいます。しかし、大流行した踊りは静岡の近郊に伝わり形を変えて現代へ続き、その一つがユネスコ無形文化遺産に登録された風流踊りに含まれる有東木の盆踊りだと考えられます。駿府から有東木にどういう経路で伝播したのか諸説ありますが、梅ヶ島を経由して伝わったと私は考えています。その理由は、先ほどお話した財力と権力の存在です。当時の梅ヶ島は、金山が最盛期を迎え駿河小判を鋳造するほどの金を産出していました。つまり、金回りがすごくいい場所で、駿府からは金山を管理する侍や商人たち、全国から金掘たちが集まり、それに伴い遊女らが集まってきて、そこに伊勢踊りが伝わったと考えられます。つまり駿府の城下町で流行した踊りの残影が、古風な盆踊りという形で今に伝わっているのです。もう一つ、家康の時代より少し前の今川義元の時代、京都から山科言継(やましな・ときつぐ)という公家が駿府を訪れ約半年間滞在した時の日記が残っています。好奇心旺盛だった言継は、様々なことを記していますが、駿府の町で見た芸能の記録が半年の間に8回も出てきます。今川氏の全盛期に、全国からいろんな芸人たちが駿府を訪れていることがわかります。これは、今川氏という圧倒的な権力を持つ戦国大名がいて、梅ヶ島金山などによる財力、治安の良さがあって、庶民を巻き込んで諸芸能が盛り上がり広く普及したと考えられます。今川氏から家康の大御所時代にわたり駿府こそ財力と権力が集まる地域であったことが、庶民の暮らしと文化を豊かにしていたことを垣間見ることができます。

 

大石 氏

 駿府の持つ首都性を裏付ける権力と経済が、今川氏から引き継いだという話は、重要だと思います。私は、これまで都市江戸をフィールドに研究してきましたが、江戸は当時畿内から見るとフロンティアで、流通の拠点であるものの文化がいまだ十分に成長しきれない地域でした。古代以来の畿内を中心とする行政、文化、交通など、さまざまなものを江戸を中心に組み立て直すことは、とても大変なことです。しかも、家康と秀忠はいろいろな場所を移動しながら政治を切り盛りしているため江戸だけでは、政治・外交を展開できなかったと考えられます。そして、その重要な拠り所の一つが駿府だったことは間違いありません。先ほどの江戸の平和は教育と文化に支えられたという話のとおり、城郭や強力な軍隊だけではなく、文明に裏付けられた庶民の下支えが必要で、駿府はそれが可能でした。

 慶長12(1607年)年3月に、伏見の城郭にあった財宝を駿府に輸送しています。いきなり江戸ではなく駿河で引き継ぐ。畿内から江戸への中継点として駿府があったことは注目するべきだと思います。

中村 氏

 伏見の話が出ましたが、伏見と並行して駿河でも小判の鋳造が行われています。そして、家康が城下町を造る時に伏見から運送業者を呼び寄せて定着させたという話があります。こういったことも首都機能を江戸に移すためのステップと考えることができるのでしょうか。

大石 氏

 古代・中世を通じて蓄積してきた畿内の首都性・首都機能を、いかにして江戸へ引き継がせるか、その役割の一端を駿河が担っていたのだと思います。高い文化文明を備え、権力と経済を備えた駿府が首都機能の一部を担っていたことは間違いなく、もっと意識して考えてよいと思います。

中村 氏

 先ほど、駿府城の外交的な役割が大きいというお話がありました。豪華な駿府城の天守は外国使節団を驚かせ、接待するための迎賓館のような役割をもっていたと思われます。外交といって思い浮かぶのが久能山の西洋時計。はるばるメキシコからスペイン国王の名代として時計を運んできたビスカイノは、この駿府の町の様子を詳しく記録していて「駿府城の金張の部屋に招かれて凄いところだった」「町の規模も非常に大きかった」と書き記しています。大石先生が触れられた教会について、私が知っているのは一ヵ所だけでしたが、いくつも教会があったことは驚きでした。

 

大石 氏

 多くの外国人が訪れ、有力商人たちも拠点にする外国交易の中心地の一つですから、教会が複数あってもおかしくないと思います。家康は、信長のようにキリスト教を積極的に受け入れませんが、貿易を重視して経済的利益を得ようという方針でした。家光の時代の禁教の厳しさとは違い、制約をしようとするものの貿易を重視するため根こそぎ絶つことはできなかったと思います。キリスト教の流入は、貿易のためには避けられないものでした。

中村 氏

 そして、やっぱり気になるのは久能山御金蔵。由井正雪(ゆい・しょうせつ)がその30万両を当てにして蜂起したという話もあるようですね。

大石 氏

 駿府御分物と呼ばれる家康のお宝が御三家に分配されたのは事実ですので、30万両があってもおかしくないと思います。ただし、由井正雪がそれを当てにしたというのは、おそらく創作だと思います。ただ幕府を震撼させる事件を起こし、江戸・京都・大坂の三都を抑える発想は大胆で、広い視野が必要です。駿府の紺屋の息子である正雪がそれを備えていたのは駿府の民衆の底力だと感じます。

 三河刈谷藩主の松平定政(まつだいら・さだまさ)が、武力により弾圧する政治はおかしいと幕府に進言しますが、正気の沙汰でないと罰されてしまいます。その想いを受け継いで正雪が立ち上がるのですが、東海道の権力と経済をベースにしないと、これほど大胆な幕府転覆という発想は出てこないと思います。これは、駿府にとっても重要な事件だと思います。

中村 氏

 由井正雪は、脚色されることが多く物語も数多く存在しますので、博物館の一つのテーマとして客観的にどのように評価できるか、いつか企画展でやってみたいと思います。駿府の町の奥深さを実感できましたが、ここで本題に立ち返って駿府の政治体制です。大石先生は、江戸の政治支配体制と二代将軍秀忠を、家康はどうコントロールしたとお考えですか。

大石 氏

 家康は、秀忠がイエスマンだったからこそ彼を二代将軍にして自分の意思を実行したのは間違いありません。『徳川実紀』には秀忠が駿府を訪れ家康と話し合う、あるいは有力者を派遣して相談することがよく出てきます。江戸幕府は、大御所家康の意見を聞きながら行政を執行する機関として存在しつつ、官僚制を整備させていったのです。官僚制は法の下で動くため、その拠り所となる禁中並公家諸法度、公家諸法度などの原型が駿府で家康やブレーンによって相談され、二代・三代将軍が実行に移していきます。内容によっては、江戸は執行機関として機能し、駿府は協議・決定機関としてあったと見ていいと思います。

中村 氏

 次の世代が江戸で新しい政治を始めるのに駿府を見習いながら組織化、官僚化していったのですね。そうすると、大御所時代の駿府は日本の歴史の根幹に極めて大きな意味を持ち、その役割を果たしていたと言っていいでしょうか。

大石 氏

 言えると思います。家康の理想を永続させていく組織が官僚ですから、具現化していく組織を秀忠以下が整備していく。そういう意味で官僚制の発達を駿府が江戸に求めたのは間違いないと思います。

 

中村 氏

 先ほど控え室で話題に出ましたが、駿府城は家康の孫忠長に譲られます。しかし、この忠長の駿府の藩政は10年も経たずに崩壊します。家康亡き後、忠長の駿府をどう位置づけるべきでしょうか。

大石 氏

 忠長事件は、駿府の歴史の中でも最重要テーマの一つだと思います。忠長が持つ駿河などの東海地域と甲斐の領地は、忠長の処罰により藩主のいない幕府直轄の番城になり、それが続きます。これも大きなテーマで、どうしてそれ以降藩を立てなかったのか、これも重要なテーマです。どうして幕府領・直轄領にしたのか、藩を置かないほうが東海道や甲州街道という江戸に直結する道を守りやすかったという考え方ができます。しかし、逆に強力な親藩・譜代藩があってもいいように思います、今後の大きな研究課題になると思います。

中村 氏

 忠長を巡る事件は資料が残っていないこともあって、よくわからない部分が多いですね。忠長は静岡の歴史にとって重要な人物にもかかわらず、いま静岡に暮らす私たちにとっての駿河大納言忠長の印象は非常に薄いと感じています。そういう意味で、忠長時代の駿府の歴史は今後歴史博物館が探求していかなければならない非常に重要なテーマだと思います。

駿府静岡の歴史

​Sing2023年4月号

Sing2023年4月号 今月のコラム「駿府静岡の歴史」画像【大石学氏】講師アッ

徳川みらい学会 2022年度第6回講演会①

近世初期の駿府と江戸

近世国家と首都 ー「駿府首都論」によせてー

東京学芸大学

名誉教授

大石 学 

 徳川みらい学会の第6回講演会が2月18日、静岡市民文化会館大ホールで開催されました。

第1部は、東京学芸大学名誉教授の大石学氏が「近世初期の駿府と江戸」と題して講演し、第2部では、同氏と静岡市歴史博物館館長の中村羊一郎氏による対談が行われました。

 大石氏の講演要旨は次の通りです。

(文責:企画広報室)

 

江戸という時代

 ヨーロッパ主導の合理化と近代化が限界を迎え、世界規模で様々な問題が噴出しています。国内でも、経済、資源、エネルギー、格差、高齢化などの諸問題が深刻化しています。西洋型文明の価値基準から抜け出し、新たな価値の創出が求められる今こそ、江戸時代に焦点を当て未来を考えてみてはどうでしょうか。

 戦国時代は、人の土地、命を奪うほど英雄になる時代でした。その価値を180度転換したのが江戸時代です。250年もの間、国内だけではなく国外との戦争がない江戸時代は、世界史的に見ても稀な時代です。当時、極東の小さな島国に自分たちの進んだ文明を伝えようと訪れた外国人の多くが、文字が読め、格差が少なく、清潔かつ楽しげに暮らしている日本人の生活に驚き、高く評価しています。庶民は、絵本・小説を読み、落首・川柳を楽しみ、利息計算もできる高いリテラシーを維持し、社会・経済・文化を発展させました。行政や経済活動を示す証文が作成され、市中には寺子屋や私塾が多数存在し、多くの看板が並び、長屋に広告が配られるなど、文字は人々の暮らしに深く浸透し、世界を見てきた外国人たちを驚かすのに十分でした。こうした知的環境・能力・知性が「平和」な社会を基礎から支えたのです。

もちろん、江戸時代にも争いはありました。しかし、これらは戦国時代のような武力による解決ではなく、法・裁判による解決へと変化しています。江戸時代に板倉勝重、大岡越前、遠山金四郎などの名奉行が登場するのも、法が社会に広く普及したことが背景にあります。この前提には、豊臣秀吉が出した戦争・武力による問題解決を禁止する「惣無事令」がありました。徳川幕府はこれを継承し、長期の「平和」を実現したのです。

 

江戸時代の首都はどこか

 江戸時代の日本の首都はどこか、いまだ定説を得ていません。20年ほど前、私は江戸を首都とする著書を出したのですが、その際、戦国時代の研究者からは「江戸の首都宣言を聞いたことがない」との意見があり、明治維新の研究者からは「明治になり天皇が京から移動し、江戸が東の京『東京』になって初めて首都になった」との意見がありました。ここでは、「首都」を行政の中心とする世界標準をもとに考えていきたいと思います。

 江戸幕府の資料『徳川実紀』によると、関ヶ原の戦いの直後に家康は、どこを居城にするか息子の秀忠に問います。関ヶ原の戦いに勝ち大坂城に乗り込み、王朝などの選択肢がある中、秀忠は「天下を差配する場所を居城としましょう、父(家康)の考え通りにします」と答え、家康はそのまま江戸を拠点としました。家康は、江戸を全国の大名が参勤交代で集まり勤務する場所とも明言しています。同じく『徳川実紀』によると、八代将軍吉宗は、三代家光の頃まで江戸が非常にさみしく「国都」(首都)の体裁をなしていなかったため、閣老らが江戸を賑わすために参勤交代を始めたと言っています。今日、教科書などでは、参勤交代は大名たちに金銭を使わせることで反乱を抑え、江戸参勤で臣従の礼を確認する政策などと説明されていますが、吉宗の認識は異なったわけです。参勤交代制度により、大名たちが江戸に藩邸を持つことで賑わい、国都の体裁が備わったというわけです。吉宗の認識が正しいかは不明ですが、吉宗が江戸を国都と認識していたことは重要です。ペリー、ハリス、朝鮮通信使、琉球王朝の使者などが江戸を訪れたことは、江戸が内政だけでなく外交の中心であったことを示します。全国の大名が集まり、様々な文化が融合し、新しい文化が成長したことも、江戸の首都機能・首都性を高めました。

 

駿府と江戸

 政権を獲得して以後、大御所時代を通して徳川家康の居所を調べると、駿府が一番長く、伏見、江戸、大坂と続きます。慶長11(1606)年、大御所家康は駿府を自分の居所とし、翌年江戸城を2代秀忠に譲りました。さらに、駿府城を拡大して家臣の宅地を整備するために、越前・美濃・尾張・三河・遠江の中部地域の大名たちに人足を賦課しました。富士山から材木を切り出して築かれた駿府城は7層の天守で、江戸城と同等のスケールでした。慶長12年7月3日、駿府城が落成、ここで大御所政治が展開されます。慶長15年には、それまで江戸より西の地域の年貢は駿府でチェックしていた体制を江戸で統一して行うこととし、美濃・伊勢・近江の13万石で駿府の経営を維持し、駿府・遠江・尾張の三国を、秀忠の弟の義直(のちの尾張藩祖)、頼宣(のちの紀州藩祖)の厨(賄料)にすることにしました。全国幕領の年貢を江戸に集中させる一方、駿府は東海地方の年貢米を集める体制を作ったのです。翌16年には書記官が置かれ、駿府の出来事を記録し始めます。

 慶長17年中国・西国の大名たちは越年のために江戸に赴く一方、譜代大名たちは駿府に参勤し越年したのち、家康に新年の挨拶をし江戸城に向かいます。駿府と江戸を行き来する大名の姿が見えてきます。また、駿府には当時の有名な僧や腕のいい職人が集まり、京都から医師が呼ばれ、歌舞伎が流行するなど全国都市、国際都市として栄えました。

 古代・中世の日本が飛鳥、奈良・京都など畿内を中心=首都として成長・発展したのに対し、江戸幕府の成立は、列島規模でこれを大きく組み替える意義を持ちました。しかし、当時フロンティアであった江戸は、いきなり畿内の首都機能を全面的に引き受けるのは困難でした。家康が大御所として内政・外交を展開した駿府は、江戸とセットになり、この組み替え作業を推進する「分都」「副都」として首都機能の一部を分有したのです。

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